先日の稽古で判明した、上達を阻害する大きな問題についての考察です。
武術は、心理的やりとりを区別すれば、基本的には単純な力学的法則によって解明できます。
できますが、実際にそれを既存の法則で説明すると、ものすごく複雑な話になります。
物体の運動エネルギーを考えれば、ニュートン力学においては物体の質量と速さの二乗に比例します。
重いものがより早く動くことで強大な運動エネルギーを生みます。
しかし実際は角度、圧力、伝達力が彼我それぞれの身体状態と共に無限の変化を伴い、無数の要素が複雑に絡み合って結果を生むため、言うほど相互に作用するエネルギーについて解析出来るわけではありません。
それはともかく、すごく単純に言えば、素早い動作(ないしは強い動作)には、大きなエネルギーが必要であり、そのエネルギーを発生させるためには、距離が必要だというイメージがあります。
シンプルに言えば、「大きく振りかぶって長い距離刀を振る程に強く切れる、斬撃力は向上する」というのは純然たる事実です。
その際には、筋力総量(運動フォームに用いる)、と体重総量、そして刀の総量、またそれを対象に的確に伝えるための土台、つまり足の筋力、足裏と床との接触による支えが重要になります。
要するにはよりマッチョで、より大きな人が、適切なフォームで、より重い刀を使って、安定した土台、滑りにくい適切に摩擦抵抗を持った床で、思い切り振りかぶって体勢を沈み込んで打ち込めば、とんでもない威力になります。
こういう尋常ではない打ち込みは、稽古でも大切だと言えます。
が、世界中の武術で、こういった打ち方がメインではないのはあまりに隙が大きいからです。
すぐに回避行動に移れますし、途中で反撃して攻撃を阻止しやすくなります。
そして体力の消耗も激しく、実戦向きではあまりありません。
試斬や稽古法の一環としてこれは用いられますが、メインにはならない理由です。
ですから予備動作ゼロで威力、スピードゼロと、予備動作マックスで威力、スピードマックスの狭間でバランスを探る行為そのものが、古今東西武術各流儀の工夫の歴史であり、それぞれの流儀の特徴を生じさせるものでもあります。
しかし如何に予備動作なしで、最大の威力、速度を生み出すかというのは、とても大切なテーマです。
中国武術で寸勁(すんけい)が有名です。
これは実際には流儀によって異なる概念だそうですが、一般にブルース・リーのパフォーマンス「ワンインチパンチ」で知られ、接触している程の距離から相手を吹き飛ばす(強力な威力の)当て身、ないしはそれを可能にする出力の方法という程の意味で、日本では寸勁という用語が知られています。
通常、日本の古流では、刃物が原則であり、そうした破壊力というものを重視した当て身はそれほど追求されてきませんでした。
しかし現実問題として、例えば神無太刀のような近距離で対者を切る際には、同様のある種の爆発力のような出力は必要なのもまた事実です。
小さな動作では、速度が落ちて威力も落ちる。
これは基本的に事実ですが、しかし小さな動作でできる限り速度を出して威力を出すというのは武術ではとても大切な発想になります。
ですが、基本的な物理常識で考えれば、「小さな動作では、速度が落ちて威力も落ちる」ものです。
そしてその常識的発想が、可能を不可能にしてしまいます。
これは有名なノミの寓話を思い出させます。
ノミは体長の200倍もジャンプすると言われています。
このノミを容器に入れて蓋をすると、最初は高くジャンプしていたノミが、繰り返し蓋に頭をぶつけているうちに学習して、蓋にぶつからない程度にしか飛ばなくなります。
その後、ケースからノミを解き放っても、一度学習したノミはやはり蓋に当たらない程度にしかジャンプしなくなるというものです。
同じような寓話で魚のカマスと小魚を同じ水槽に入れて、カマスと小魚の間に透明の仕切りをつけると、カマスは小魚が食べられない。その後、仕切りを外してもカマスは小魚を食べなくなるという、カマス理論と呼ばれる寓話があります。
また子象を杭な繋げた質素な鎖で飼っていたら、大きくなってもその鎖から逃げられないと思って大人しくするという寓話もあります。
あくまでも寓話ですが、これは学習性無力感の説明で用いられるものです。
特に正しい動きを学んでいない以上、いくら力んで頑張っても、一般的な物理常識通りに、小さな動作では、速度が落ちて威力も落ちます。
そのため、そもそも正しい努力が出来ないという現象があります。
これは女性には特に顕著な傾向があります。
男性の場合は、力でなんとなるというイメージがあるので、そこまで苦手意識はないように思いますが、単純な筋力でどうにかなるというイメージは、それはそれで問題が大きいものがありますが。
さて、運動においてエネルギーを生み出すのには、筋力の総合的作用が大事です。
当該エネルギーを生み出すのに、最適な筋力各部位を総動員することで、発生エネルギー量を増加させることが出来ます。
つまり体中の筋肉、骨格を最大限に使って運動量を増加させることが肝心です。
それは一般の運動で依存する、大きな筋肉ではなく、いわゆる深層筋、インナーマッスルと呼ばれるような筋肉、またより微細で一般人はほとんど使用しない微細な陰性の筋肉も利用した総体的運動である必要があります。
身体の筋肉量の比重が高い、一般的に大きな筋肉と呼ばれるトップ10の総合筋力量を人体の総筋力量で概算すると、おおよそですが22%程度と言われています。
多くの人が運動する際に、考えている働く筋肉は、もう少し多めに見積もったとしても、人体の総筋力量の1/3に満たないということになります。
もちろん心筋などは運動として加担してくれないものでしょうが、各々の筋力の連動など考えれば、総量としては本来は人体には物凄いスペック、ポテンシャルが秘められています。
よく野性的な運動能力を表現として用いられていますが、知恵と工夫と鍛錬によって実際には野生では不可能なレベルで能力を発揮出来るのが人類の身体なのです。
これはそこまで極端な工夫が出来ない、他の生物には不可能な領域です。
【日本初参戦】100年前のオリンピック
https://www.youtube.com/shorts/WRkJ6IYRUVo
今と昔 – パリ1924から東京2020まで
世界に名を馳せる体操選手たちが、100年前の選手と同じ器具で演技をしてみた様子を見てみよう。
https://www.olympics.com/ja/video/now-and-then-paris-1924-to-tokyo-2020
実際に、100年前の体操との比較が有名です。
体操だと自分の時代感でも、私が子どもの頃はまだ体操でウルトラC(難易度Cの高得点技)が物凄いこととされていましたが、今では当たり前の技になっているという進化があります。
身体のポテンシャルは無限大とまではいきませんが、実際問題、私達が人生でこれを発揮しきるのはかなり難しい程度には、身体は天井知らずのスペック、ポテンシャルを秘めています。
そして僅かな距離の運動であっても、必要、有用な身体機能のすべてを総動員すれば、相当量のエネルギーを生み出すことが可能になります。
しかし例えば抜刀後に、刀と拳が僅かに移動するという運動を考える時、移動距離が僅かだから、速度も威力も最低レベルになるというのは間違いであるということになります。
もちろん物理法則を捻じ曲げることは出来ませんから、予備動作を多数用いた場合と比較すれば速度は落ち、威力は落ちます。
ですが、そこで必要なだけの速度とエネルギーは生み出せるということです。
それが出来ないのは、才能がないのでもなく、身体的に恵まれていないわけでもなく、運動神経の問題でもなく、正しく動けていないのと、正しく運動の原理を認識せずに、その誤認に基づいて出来ないと決めつけて、努力を怠っているからです。
いくら指導者が目の前でそれを披露して体現して説明しても、「自分は選ばれた人間ではない才能がないから出来ない」と完全に間違った信念を掲げる限り、出来るはずがありません。
そもそも手本をまともに観察出来ず、全情報を認識することを拒絶してしまいます。
心焉に在らざれば視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず
(礼記ー大学より)
心がここになければ、見ていても見えず、聞いていても聞こえないし、食べてもその味はわからない。
という意味です。
まず自身の間違った認識を改めることから、修行は始まります。

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