脱力の極意

脱力の誤解について

 天心流では力を抜くこと脱力を大事として教えます。
 稽古でもブログでもありとあらゆる場面でこれを強調してきました。
 しかしこれはとても難しいものですし、何度説明しても説明しすぎということは無いと言える程に重要な教えです。

 まずそもそも論として、脱力、力を抜くというのがまったく理解できていないという問題があります。
 ある海外の門人いわく、私の動きは「動く瞬間に筋肉を最大に使って瞬発力、速度を生み出していると思っていた」との事。
 実際は驚くほど筋肉を使っていないことを理解してもらうため、腕などに触ってもらった状態で瞬抜を行って確認してもらいました。

 もちろん、運動というのは筋肉を多かれ少なかれ使うのですが、それは自動で最適化されるものであって、自分でどの程度筋肉を使うかなどとコントロールするものではなく、最小の筋肉運動を意識して、正しく、そして素早く運動を行うことで、はじめて自動的に筋肉の出力は最適化されるものです。

 正しく動かしながら、同時にすべての力みをゼロにしていくという、相反するような稽古で初めて、一般に用いられる運動とは異なる、質的転換機能転換された運動は生じません。

・無駄な筋力を用いることで、阻害される運動を排除する事
・一般の成人の殆どがコントロール出来ない、陰性の随意筋を必要に応じて機能させる事
・目的に対して最適な身体操作を、最適な手順で行う事
・そうした稽古、訓練によって、筋骨、神経を強化していく事

 こうした内容の集大成として現れる最適化された運動をカッコつけて呼ぶと質的転換、機能転換された運動という表現になるかと思います。
 無論昔の人はそんな表現を用いていません。
 ただただ「力を抜け」、「脱力しろ」と教え、それを死ぬほど稽古して、草書(離)の急でも行うように伝えただけです。

 しかし、固定観念の筋力、筋肉、勢いに頼った動きをいくら繰り返しても、それは似て非なるものにしかならず、いくら稽古しても私のようなレベルにならないという話になります。
 似て非なるとは、一般の人にはよくわからないという程度の意味で、見る人が見ればまるで別物とすぐに分かりますし、実際に手合わせすればさらにそれは明白なものとなります。

 だからこそ世界中で、あらゆる武術経験者や、体格差を無関係に納得させることが出来るという実績があります。
 ですが、何もそれが全てというわけではなく、基本的に質的転換、機能転換された運動を目指すと、そもそも上達がとても容易になります。
 つまりお得な話なのです。
 力みはコントロールを難しくするため、形を正しく学ぶ最大の阻害となります。
 頑張って稽古していても、その質的に間違っていると、上達せず退歩することにしかなりません。
 同程度に激しい稽古を行った際に、私だけ疲労度が格段に低いのは、単純に慣れている、たくさん稽古していて体力があるということだけではなく、そもそも最適化されていてきわめて省エネだということです。

 筋肉痛であったり、肉離れしていたり、打撲、捻挫、骨折など、多々の負傷箇所を抱えていても、パフォーマンスが極端に落ちず、かつ稽古を維持出来ているのは、私が天に選ばれたフィジカルギフテッドだからではなく、最適化した身体操作によって、負傷箇所の負担を最小限にして、別の部分でカバーしているからです。

 「全身を使っている」というのはとても安易に使われますが、実際は大抵のプロ選手でもそれほどのものではありません。
 体格的に恵まれていて、特定の部位を強くすることでパフォーマンスを向上させるというのが殆どで、全身くまなく運動強化されている選手はごく一部です。

 脱力、力を抜くというのも、使い古された「当たり前」化した言葉ですが、これを本当に実行している人はほゼロです。
 あくまでも慣れ程度として認識するか、ただ脱力すればよいと認識して正しい動きから乖離しているかという二種類の誤ったパターンが99.999%の世間の認識です。

 その間違った常識から脱却して、懸命に稽古して身についた身体、筋肉こそ、天心流が真に求める脱力の世界となります。
 ここまでは、まだ脱力の基本的理解が進んでいない人向けの話です。

 脱力のイメージ

 天心流ではイメージを大事としています。
 様々な技法名もそうしたイメージ力を発揮して上達するために付けられているのです。

 脱力のイメージもまた同様に、極めて重要です。
 脱力については、腕は風に揺れる柳の枝をイメージさせるなどありますが、もっと全体的なイメージについては特に言及がありません。

 そして私が見る限り、殆どの人のイメージは、シェイクされてぐちゃぐちゃに混ざったようなものだと感じます。
 私も行う、脱力の導入方法として、「身体が蜜のように、アメーバ状の液体状のように溶ける」というのがあります。
 これはリラックス効果を促し、とても効果的ではあります。

 しかし運動を伴う際には、とても動きを遅らせます。
 全体としてただ脱力するだけで機能しないものとなるからです。

 実際には、もっと複雑なものです。
 各部がパフェのようにそれぞれ混じらずに存在しており、必要に応じて、位置が入れ替わり、必要に応じて混じり合うような、自在性を持ったものです。
 ニュートラルな状態であって、混じり合ってアンコントロールな状態に陥ったものとは一線を画します。

 脱力とは、機能や筋力、力をゼロにするのではなく、必要に応じて動くように調整するということです。
 しかし自分でその程度をコントロールすることは出来ないため、正しい動きを可能とするという前提の中で、可能な限り筋肉運動量を下げるという程のなります。

 初学者の場合、そのような難しいことより、まず形を覚えて、それを繰り返し行い、稽古の下地を作り、つまり反復稽古に耐えられる筋力や柔軟性を生み、次の段階の稽古となるより正しい動きや、徹底した脱力を意識した稽古などにおいて集中出来るようにするという段階が必要になります。

 そうしたことが出来たら、とにかく脱力をすることを折に触れて稽古し、いつも脱力が当たり前となっている必要があります。
 これによって、身体はより機能性を増し、速度は高まり、より多くの陰性の随意筋が動き、より運動は最適化され、スタミナ消費が減少して継続的な稽古が可能となり疲れなくなり、対者はあなたの動きを追ったり止めることが難しくなります。
 そしてそのように洗練された動きは、極限の機能美を獲得するに至るわけです。

脱力に必要な事

 これは脱力に限りません。
 すべてにおいて同じことが言えます。

 それは「出来ない事、わからない事を受け入れる」です。
 これが出来ない人は昔から多いのですが、現代では先に答えを知るという悪習が蔓延したため、「出来ない、わからないアレルギー」によって、「きっかけすら掴む前に諦める」という悪循環を生み出しています。

 出来ない事に挑んでいるのだから、出来ない事を受け入れて、繰り返し続けるしかない。
 「本当の意味で理解出来るのは、本当に出来るレベルにならないとわからない、それ以前の理解は理解したつもりに過ぎない」という研究が以前出されていました。
 説明は、納得させて正しい道に誘導するためのもので、実はそれほど重要ではありません。
 納得出来るような説明をされても、実際にその運動を出来るようになるまでは錯覚に過ぎないというのが、運動と理解の現実です。
 「わからない」のは当然なのにも関わらず、理解を元に運動の改善を求めるので進みません。
 無駄に頭を捻って時間を無駄にしてしまいます。
 最重要な部分はもちろん守る必要がありますが、必要以上に理解して動こうとすると、結局大きなタイムロスになります。
 この重要な点を理解せず、正しく迷って稽古出来た人は皆無でした。
 私が学んだ「稽古の要点」に絞って悩めるようになった人以外の、迷いの稽古は、100%がただのタイムロスで終わっています。

 分からなくてよいので、とにかく繰り返すことが何より寛容になります。

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