鍔転返

今回は坐法 置刀(休太刀)の技法である鍔転返(つばてんがえし)です。
この技法は抜刀せずに対者を制する殿中刀法鞘ノ中(でんちゅうとうほうさやのうち)の一つであり、秘太刀(ひだち)秘剣(ひけん)に位置付けられています。
これが秘太刀とされる理由は、恭順(きょうじゅん)を示す状態である平伏に対して、手討ち手打ち)にするような一撃(抜討)に対し、抜刀を未然に防ぎ止めるという、非常に特別な状況であるためと考えられます。
平伏という絶対的不利の状況から、死中に活(活路)を求める技法です。
(晋書―呂光載記「死中求生、正在今日也」より)

往時は、例え上意討ち(じょういうち)であったとしても、士分である以上、これに迎え撃つことが出来ました。
藩の改易が決まり、その先触れとして遣わされた士林団光願の武士は、書状を携え葵の御紋の羽織などで武威を示し家老と対面します。
そうした際には、城内であっても大刀を持ち込みます。(戦国時代の交渉の名残り)
しかし鍔と下緒を紙縒(こより)で結束し、抜刀しない事を示します。
なおこれを濡らして引きちぎる、または小刀(小柄)にて切って抜刀するという別伝も存在します。

そのようにして対面した際に、意図的に相手方を侮辱して、激昂させ叛意を起こさせて用いるのが殿中刀法鞘ノ中であり、特に平伏時に用いるのがこの鍔転返です。
形式上の細かい詮議によって、紙縒によって抜刀しない事を示し、礼を尽くしたにも関わらず、徳川将軍の名代(みょうだい)に対して害意を示したと明らかにされ、これは謀反と同様の行為とみなされる事となります。
つまりお取り潰しへの大義名分が立つというわけです。
徳川幕府の樹立から、神君(家康公)、秀忠公、家光公の三代の間に、およそ130家が改易されました。

名称について

この技法ではテコの原理を利用して刀を反転させます。
鍔を支点にして、柄頭を力点、鐺が作用点となります。
鍔を支点に反転させるということから、鍔転返、ないしは単に鍔返(つばがえし)とも称されます。
また鍔転詰事(つばてんつめのこと)とも呼ばれます。

手順について

間合は行の間(五尺半、およそ165cm)。
まず合手礼(がっしゅれい)、または雙手礼(そうしゅれい)にて平伏します。
この際、顎は上げずに、上目遣いにして対者の気配を探ります。
但し、面を伏せる以前には視線は上げてはいけません。
対者が抜刀せんとする気配を感じ取ったら、平伏の姿勢のまま、左手で柄頭を抑え(力点)て鍔を支点にして鞘(鐺が作用点となる)を上げて床と鞘の間に隙間を作ります。
そして右手を手の平を上にして鞘の下に親指ごと差し入れます。
そして柄頭を支点にして、左手(力点)で鞘を跳ね上げるようにして鐺(作用点)を持ち上げます。
柄頭を床から離さないようにして自分の顔の前にスライドさせ、頭(顔)のすぐ前に刀を刃を前として垂直に立てます。
左手は鞘から下して鍔を小指側の手の平(少子球)で控え(抑え)ます。
右足を立てます。
さらに右足を前に大きく前(すす)め、鐺、鞘にて対者の抜刀しようとする右小手を打ち抑えます。
以降は様々な変化を含みますが、初学ではそのまま、刀を左手で返して刃を右として、右手を持ち替えて右手親指にて鍔を控えます。
左手を柄頭から離して、大きく左斜めに六尺(およそ180cm)以上退(ひ)き下がり橦木足(しゅもくあし)残心します。
その後は通常の手順に従い技法を終えます。

重要なポイント

  1. 右手を鞘と床の間に差し入れる際、必ず親指は四指に揃えるようにして、鞘の下に手の平と一緒に差し入れて下さい。
    殆どの人が鞘を持つため、親指が鞘の上に来てしまいます。
  2. 刀を中墨に立てる際には、顔から離さないようにして下さい。
    刀を楯にして自分の身を守るようなイメージで行って下さい。
  3. 刀を立てる際に、刀の柄頭を常に床から離さないように注意して下さい。
  4. 右手は、刀を立てる際に、差し入れた最初の位置から鍔までスライドさせます。
    そして右手の平で鍔を控える必要がありますが、多くの初学者がこれを忘れがちです。
    必ず行うように注意して下さい。
  5. 刀の前に進める際に、柄頭を常に床から離さないように注意して下さい。
    草書(離)の際は、若干柄頭は浮きますが、楷書(守)では基本的に柄頭は床に設置したままスライドさせます。
    (但し、稽古場の床を傷つけるおそれがある場合は僅かに浮かせて稽古して下さい)特に初学では、特に柄頭が床から離れるため、柄頭を左手で持たないでスライドさせると良いでしょう。

テコについて

この技法ではテコの原理を活用します。
左手で柄頭を抑え(力点)て鍔を支点にして鞘(鐺が作用点となる)を上げて床と鞘の間に隙間を作ります。
柄頭を支点にして、左手(力点)で鞘を跳ね上げるようにして鐺(作用点)を持ち上げます。

その後は支点、力点は入れ替わります。
柄頭が支点となり、力点が右手となり、鞘を立てて行きます。
ただし、力点となる右手は固定されず、最初に鞘に触れた位置から鍔までスライドします。

後退時の刀の持ち替え

まず柄頭を持った左手で刀を返します。刃が下を向いた状態から、右向きに90度変化します。
次に右手を持ち替えて、右手親指で鍔を控え(抑え)て刀を持ちます。(人差し指で控え鍔を行っても良いです)
右斜めに大きく後退し、橦木足となり残心します。

足の働きについて

刀を正面に立てた後、両つま先を立てます。
そして
右足を前に少し出します。
右足をさらに大きく出来るだけ前に出します。
左膝を進めて右足の踵近くに寄せます(寄せ足
この際、左脛を横気味とします。

終わりに

この技法は絶体絶命の状況からの、起死回生の一手です。
平伏の姿勢では対者をしっかり見ることが出来ません。
それだけにタイミングが大変難しく、技法も非常に難しいものです。
技法は常に「理想通り行くわけがない」という現実の中で、理想の形を学びます。

稽古の中ですら理想通り進められなければ、実戦の中で勢法(かた)を活かすことなど夢のまた夢です。
この基本を理解せず、型稽古を軽視したり、莫迦にする人が多々います。
これは特に楷書(守)では顕著です。
確かに楷書だけでは稽古としては不十分です。
しかし楷書はすべての基礎となります。

天心流の素早い技法は最大の魅力です。
そしてその実戦性はもはや証明の必要はな程です。
しかしその基礎を作っているのは、そうした一見すると退屈な楷書の稽古です。
そして稽古するほどに、楷書の味わいも理解出来るようになります。
ですから、しっかりと稽古に励んで下さい。

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