日本刀について

日本刀について

■ 日本にとって刀とは?
 刀とは何でしょうか?
 狩猟や伐採採集などの用途で用いられた槍、斧などと異なり、刀剣は比較的新しい武器であり、同時に人間同士で争うために生み出されたものと考えられています。
 なぜ洋の東西を問わず刀剣は神聖視され、特別視されたのかというと、それは人が人を殺傷するために生じ、進化したものだからと言えます。
 刀剣は人間の知恵と業そして権力の象徴なのです。
 日本では三種の神器の一つに天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)がある事からもわかるように、呪術的側面も持った祭器・法具としての役割もあります。
 日本では直刀両刃のいわゆる剣(つるぎ)に変わって、湾曲した片刃の太刀、刀が登場しました。
 これは現在では日本刀と呼ばれ、特に「武士の魂」と言われていますが、姿が変わってもその象徴的役割は変わらず、武士階級のみならず庶民に至るまでも重んじました。
 武道初心集(大道寺友山著)では以下のように記されています。
 「本朝の義は異國にかはりいか程輕き町人百姓職人躰の者なりとも似合相應にさび脇指の一腰づゝも相嗜み罷在候義は是日本武國の民の風俗にして萬代不易の神道也。」
(本朝は「わが国の朝廷」という原義でようするに日本のことです。
「異国にかはり」=「異国とは違い」という程の意味。
軽い身分の者でも身分相応に錆びた脇指を一振りでも帯びるのが基本的観念であり、これは武に拠って立つ日本という国の風俗であり、萬代不易=永遠に変わることがない神道=ここでは天津神国津神の導きたる日本の道という程の意味となるでしょうか。)
 このように身分に関わらず刀剣、そして武芸を大事とするのが日本国の特性と表現されています。
 (江戸時代ではありませんが、昭和の剣聖と謳われた高野佐三郎先生は「剣道」において以下のように記しています。
 「古来我が国民は刀剣を尊重せり。三種の神器中の宝剣を始め奉り。上は将相より下方民に至るまで戸毎に必ず宝刀を伝へ、以て家の衞り身の守りとなせり。刀剣が最も広く用ひられしを以て剣道も亦最も広く行はれ、独り武士の階級に止らず一般庶民の間に伝はり、如何なる遍陬僻地に於いても竹刀の響を耳にせざるをなきに至り以て維新後の今日に及べり。」)
 このように、古来より身分に関わらず刀剣を重んじる国風にあった日本ですが、同時に、武士にとっての刀は、他の三民(農工商)にとっての刀とは一線を画するものであることもまた事実です。
 武道初心集では以下のようにも記されています。
 「然りといえへども三民の輩の義は武を家業と不仕候。」
 (だがそうは言っても、三民の観念は武を家業とはしたものではない。)
 「武門におゐてはたとひ末々の小者中間夫あらし子の類ひに至る迄常に脇指をはなしてはならぬ作法に定る也。」
 ( 武門に於いては、たとえ末端の小者・中間・あらし子=武家で主に力仕事を受け持つ身分の低い男子まで、常に脇指を身から放してはならないというのが、決まった作法である。)
 「況や侍以上の輩としては卽時が間も腰に刃物を絶しては罷成ざるごとく在之。」
 (ましてや侍以上の身分であれば、一瞬であっても腰に刃物が無いという事は許されない事である。)
 江戸期においては武家は治世、政を司る職分でもありましたが、本質としては戦人であり、必要とあれば仕える主君や自らの家、そして領民、国を守るべくいつでも戦うために、大小の刀を腰に手挟んでいるのです。
■ 武士にとっての刀とは?
 「刀は武士の魂である」。
 これは誰もが耳にしたことがある言葉でしょう。
 しかしこれは、ただ大切であるという意味ではありません。
 希少な鉄を用いて打たれた刀は、武士が仕える主君や家や一族、領民、国を守るために、八百万の神々より授けられた戦人としての証です。
 ですからこれは決して私利私益のための私闘に用いるものではなく、公利、公益のためにのみ用いなければなりません。
 そしてこれは私有財産ではありません。
 いわば自らに課せられた使命を成し遂げるために一時的に授けられた神器であり、その役目を終わればこれは次の代へと受け継がれていく国宝です。
 もちろん武具であり、時には使い捨てることも状況次第ではあります。
 それは常に武士が戦人として使命を帯びているという前提があってのことです。
 間違っても濫りに利用するものでもなく、理由なく使い捨てることがあってもいけません。
 特に江戸時代という、戦の無い太平の世の中においては、武人である武士よりも、人々の生活に寄与する三民の生業の方が社会に必要とされるものです。
 武人が治世を司るには、武に秀でるだけではなく、三民の手本としてその生き様を示さなければなりません。
 そしていざという時には、腰の刀を用いて義に殉ずることも厭わない。
 これが江戸期の武士の基本的な理念となりました。
 その身分を後ろ盾するのは、やはり武人としての武士であり、それを象徴するのが刀なのです。
 武士にとっての刀は、アイデンティティそのものであり、だからこそ「刀は武士の魂」という言葉が生まれました。
 もちろん、これは理念であって、往時の武士がみなこれを身につけて、あるべき生き様を示していたわけではありません。
■ 現代における価値観
 現代においては、法律上、我々の所有する日本刀は個人の所有物です。
 それでも、日本刀を所持する者は、等しくこれが日本の宝であり、これを可能な限り大切に扱い、後世に伝えるべきだという通念を持っています。
 そして日本刀の持つ魅力は、そうした昔時から貫かれた一つの、信仰のような理念があるからこそ、ただの武具であるということを超越した魅力を刀は備えていると言えます。
 我々は稽古で、日本刀を用いることもあります。
 時には試斬を行うこともあります。
 日本刀の保存という観点と、現代刀匠の育成の観点から、可能であれば現代刀で行うことが望ましいですが、やはり経済的問題などから、やむなく往時の刀を用いることが多いです。
 しかしそれも出来うる限り刀を損なうことなく、大切にする意識が必要です。
 そしてまた、我々は模造刀を稽古で重用します。
 しかしこれも刀の姿を写したものであり、そして武人がそのお役目で必要な武藝を身につけるための道としてこれを用いる以上、これを刀と見立てて同様に大切に扱うことが求められます。
 これは、真剣であっても模造刀であっても、一切摩耗させないように慎重に丁寧に扱うということではありません。
 往時であれば、喩え本身であっても実際にぶつけあって腕を磨くような稽古も行っていました。
 武人として必要な稽古においては、無論必要に応じた荒々しい利用をなさなければいけません。
 現代では、そうした武士として、武藝として必要な用法まで含めて、全面的に否定を行う人々もいます。
 確かに伝統工芸品、美術品の保存の観点からは望ましいことです。
 しかし彼らの提唱する刀剣観念が、あたかも往時の武士における現実的な刀剣への感覚と同様であるかのように誤解させ、捻じ曲げるような論調を見受けることがあります。
 そしてとても残念なことにそうした誤った、現代に作り出された理念が海外にまで誤解されて広められていることに、我々は強い危機感を持っています。
 これに限らず、多くの論拠のない誤った考え方が、時に意図的に、心無い人々の手によって作り出され、広められています。
 しかしこれは、そうした過ちを正す努力を我々が怠ってきたせいとも言えます。
 まず天心流オンラインで天心流を学んでくれている有志から、この考えを共有したいと思います。

 

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