九字について

九字について

天心流オンラインのメンバーから九字の意味について解説して欲しいという希望がありました。
とても大切なことなので解説します。
しかし詳細を記述すると、とてつもない長さになるので、必要と思われる部分に絞って概要を解説します。

九字について

天心流では納刀時に必要に応じて残心を行います。
残心とは日本の諸芸(しょげい)で用いられる用語であり、「油断(ゆだん)無きように心を残す」という意味を持ちます。
天心流では「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)もしくは階(かい)・陣(じん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)」の九字(くじ)を心で唱え、残心とします。
そして納刀により、切っ先が鞘に入る瞬間には同じく心の中で「無(む)」と唱えます。
これは道教に由来する九字護身法(くじごしんほう)と呼ばれるものです。
通常九字護身法は印契(いんげい)、或いは刀印(とういん)と共に唱え、魔除(まよ)けの呪言(じゅごん)として密教(みっきょう)や陰陽道(おんみょうどう)、修験道だけでなく、武士にも用いられました。
魔除けにより鎮静、精神統一の効果があります。
昂ぶった精神を落ち着かせるのも大切な役割です。
稽古においては実感しにくいですが、実際の斬り合いでは甚だしい興奮状態になります。
そのため心を落ち着かせながら、集中が途切れる事を防ぐ九字はとても大切な役割を果たします。
そして血の穢れ(血穢)を払う呪(まじな)いの意味を含みます。

臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前

「戦いに臨む兵(つわもの)、闘う者、皆が陣をなして我が前に在り」
これは宗教的・呪術的あるいは民俗学に複雑な問題ですが、他宗教が信仰、教義、呪術などが相互に影響を与えて、混和されます。
この九字はその典型例です。
道教に端を発しているものの、実際は神仏など自ら帰依する対象を謂わば守護神として用います。
すなわちここで言う、「戦いに臨む兵、闘う者、皆」はそれぞれの思うもので良いということです。
これは私の個人的な方法ですが、私自身は信仰として以外に、天心流の遠祖や連なる人々、つまり柳生石舟斎師や上泉信綱師、柳生宗矩公や柳生十兵衞師、柳生宗冬公、そして流祖である時沢弥兵衛師や代々の師家、そして士林団のメンバーや天心流の門人、すべての先人を思い描いています。
これは流儀の継承者としても自然な方法だと言えます。

「無」について

「九字にさらに一文字の祈願を加えて十字とする」というのは、この九字に用いられる用法の一つです。
天心流では、納刀時に「無」の一字を加えて十字としています。
この無は、「無に戻る」という意味を指します。
天心流に伝わる道歌には以下のようなものがあります。
(この無の教えの道歌にはいくつかのバリエーションがあります)
無より形は生じ 形は心を求め 心は又形を求め
心のなかに形あり 形の中に心あり
全ては 無に戻る也
これは仏教・禅語由来として類似の言葉が知られているものですが、出典は不明です。
ともかく、これは様々な側面を持つ言葉ですが、ここでは技法と闘争においての側面で解説します。
まずは技法です。
刀を用いる前は無の状態です。
そして刀を抜くことで技法が始まります。
(天心流には抜刀せずに行う技法もありますが、それはここでは除外しますが)
ここで無から形が生じます。
しかしただ形のみではいけません。
何をすべきなのかという意志、よりよくしようとする意識、そうした心が伴わなければ、技法は質を伴うことは出来ません。
そして心がその形、機能をより良いものに変化させていきます。
だから心の中には形があって、形の中に心がある。
そのように技法を行い、納刀により、形も心も無に戻ります。
このようにして始まりと終わりを繰り返すのが稽古です。
闘争おいてもこれは同様のことです。
刀を抜くこと、兵を挙げることにより闘争(形)が起こり、これは志・目的(心)を必要とするものであり、そしてそれがあるからこそ、闘争の手段(形)が生じます。
そして和睦か降伏か、争いを治めることになります。(無)
心構えとして、無より起こった物事に、終止符を付けるというのが身体の働きとして納刀であるのに対して、心の働きとして唱えるのがこの「無」なのです。
これらは仏教の生々流転の考えに由来します。
マクロ視点からミクロ視点までものごとはすべて始まりと終わりを繰り返しているという考えであり、無からはじまったものは、無に帰すものです。

無と空について

しかし、無といっても、武士の心構えとは、いついかなる時も戦いの心を忘れずに備えるべきものです。
これを「常在戦場(じょうざいせんじょう)」と言います。
無を考えるとき、これは矛盾しているように感じます。
何も無い状態に戻りつつ、しかし常在戦場の心構えを持つのは文字通りに受け取ると矛盾しています。
これは形而上学的というべきか、哲学的と言うべきか、極めて説明と理解が難しい問題になります。
これは理解出来なくとも構いません。
理解せずとも、二律背反とも思われる両面を大切にすればそれはそれで十分に成立する話でもあります。
ですが、一応詳細な解説を行います。
この無の道歌は仏教に由来するものと前述しましたが、本来仏教では無の定義が異なるものなのです。
インドでは古来より、何も存在しないという程の意味では無を定義しません。
有に対して、それが存在しなくなることを「無」と定義しています。
つまり技法や闘争が起こる、「有」に対して、それが無くなるので「無」であるという定義になるわけです。
完全に何も無い「無」ではなく、ただあるがままの状態という程の意味に置ける「無」と定義すべきであり、これを「空」と言います。
武士という存在の必然的なものとして、常在戦場という心構えを心に有している。
しかしそうした武士の存在そのものは、平生のただの有様であり、特別なものではないゆえに空であり無であるということです。
また技法が無い、形を行っていないので無であり、あるがままの状態でありそれは「空」といえます。
これをマクロ視点でいえば、すべてが無であり空であると言えます。
形も心もただあるだけという見方が出来るからです。
ですからこの道歌の指すのはメゾ視点というべきか、ミクロ視点というべきかはわかりませんが、限定的な概念になります。
このように、正しい教えであっても、視点を替えると矛盾することというのはあらゆる事象において存在します。
どれが間違っていてどれが正しいというものではなく、今何が必要であり、何が最適なのかということを正しく判断することが重要になります。

九字の方法

九字を用いるには3つの方法があります。
壱、心なかで、または声に出して唱えるもの
弐、刀印を用いて縦横に線を描く九字を切ると呼ばれるもの
参、手で印を結ぶ手印を用いるもの
天心流はいずれの方法も用いますが、天心先生は先代の方法を覚えなかったので正しくは伝わっていません。(弐が曖昧で、参はまったく)
しかしこれらは一般に広く用いられているものであり、一般の方法を各自が学び用いることで十分な内容とも言えます。
これは文字では示せないため、今度オンライン稽古で紹介します。
以上、今回は九字における概要を解説しました。

 

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